数奇な運命をたどる「青い壺」

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有吉佐和子といえば、「花岡青洲の妻」であり、「紀ノ川」であり、「複合汚染」だった。
特別に注目していた作家ではないので、世評に取り上げられるたびに、何となく読んでいた程度だ。
作家自身も自らを大衆小説作家と言わないまでも、ごく普通の読者層を想定していたようだ。

作家の資質や個性を語るエピソードとして、忘れられないのが、ロンドンに行った時のことだ。
娘の玉青が語るに、ここは女王様のいる国なのよ、と言って
興奮して闊歩していたという。
劇的な、歴史物語的な感興に大きく突き動かされる作家だったと思う。
アイデアが次から次へと生まれ、多作家といえるだろう。

本書は多分新聞の書評欄の文庫コーナーで取り上げられていたものと見え、図書館に予約してもなかなか順番が回ってこなかった。

焼きあがった「青い壺」が思いのほか上出来で、見る人の心を捉えてはなさない。
南宋浙江省は12世紀の竜泉窯の名品と鑑定する専門家が出てくるくらいだ。
作品の持つオーラと呼ぶものがあるとすれば、この「青い壺」がまとう気品ではないか。

ものが魅惑する時、それを手に入れたいと願う好事家がいて、意外な安値がついて贈答用に利用する人も出てくる。
「青い壺」は通貨のように人知れず流通する。
昔、ものに呪力があり、それを手にした人が不幸に襲われる、という話を読んだ記憶がある。

「青い壺」の落としどころは、作家性への批評だったのか。
作品は作家の手を離れて自立する。
すでに鑑賞者のそれぞれの心に住みつくのだ。
まるで書き終えて、市場に出回る物語が、一人歩きをし始めるように。
有吉佐和子は、その意図を言わんがために本作を書いたとは思わない。
ミステリアスな趣向にこそ惹かれて
物語の進行は、しぜんとそのような成り行きになったのだろう。

有吉佐和子について関川夏生は「自分自身の内面を書く能力も意志もなく」と評している。
内面を書かなかった作家は、落款を残さなかった。


※ 青い壺  有吉佐和子 著  文春文庫(’11.7)

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