手術とリハビリ

「自分との闘いです」
と、リハビリの指導を受けている柔道整復師が言う。
手垢のついた言葉は、あまりに当たり前すぎて、虚しい。
この世に生きるだれでもが、意識すると意識しないとにかかわらず、日々「自分との闘い」に明け暮れているのだから。

術後、3年と2か月が経つが、リハビリの成果がみられない。
セカンド・オピニオンを求めて、他院への診療情報提供書を求めた。
紹介元の病院と、その紹介先である手術をした病院からみれば、第三者の病院ということになる。

股関節センターには連日,引きも切らず患者が訪れる。
年間700件以上の手術(股関節)をこなす病院だ。
初診では、現在の病状について、たくさんの質問事項にこたえるかたちの問診表が用意されており、痛みがとれたり、QOL(生活の質)を改善しなければ(無用の)手術は行わない、という姿勢を明確にしているように感じた。

他の医師が行った手術方法には疑問を感じたのだろう。
M医師は、「(手術前は)痛みは無かったんでしょ?」
なぜ、この手術方法をとったのだろうか、と疑問を感じておられるようだった。
紹介状を兼ねる診療情報提供書の前に、情報開示請求を行って手にした資料を持参した上での診察だった。
その資料である2枚のCD-ROMのうち、1枚は患者の名前だけでからっぽだった。
もう1枚も肝心な画像データは一切含まれていず、入院中の食事の記録など、電子カルテに記載された内容だけであった。
M医師が特に見たかったのは、手術前の股関節の画像なのだ。
「もう一度足を運んでもらうことになるけど・・・」
と、結局
情報開示請求では、責任ある対応がなされないこともあり得る
と感じて、診療情報提供書の発行を依頼することになった。

再診の時のM医師は、あまり多くをおっしゃらなかった。
私も深く追求しなかった。
ただ
「バックウォークを一時間行うように」
というアドバイスがあった。
とてもできない、と思った。
その言葉を、まだのびしろがあると、前向きにとらえるべきか・・・

そこで前述の柔道整復師の言葉となるのだが
筋肉をつくるためには、生半可なリハビリでは及びもつかない。
ここまで苦労することが分かっていれば、術前にもっと執刀医と十分に話し合っておくべきだった。
後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。
急いでもあまり意味がない。
患者が今後どのような人生を送りたいのか。
どんな責任を負っているのか。

今の医療では、そこに触れる時間もエネルギーも不足しているように思われる。
一番軽視されるのは、患者の命と意思だ。
たった1枚の同意書
「あなたは手術の直前までNOという権利があります」
に、署名すれば、あとは患者の自己責任だとでも言うのだろうか。

医師と患者は他人どうし。
最低限の信頼関係が無ければ
患者はもちろんのこと、医師の不安も解消されない。
この時、医師はプレッシャーのあまり、過剰な医療を施すことにならないか・・・
よく言われるような、論文に書くための研究材料としての患者は、私自身はそう多くはない、とみるのだが
人間の心は、自分でさえはかり知れない。
多少の野心はあり、承認欲求がある。

若いお医者さんに、是非聞きたい。
あなたの母親に、この治療をしますか、と。

専門化され、細分化した医療だからこそ、達成できる高度医療もあるだろう。
しかし、それだから専門分野をつなぐ連携が重要になってくるはずだ。
そこで必要とされるのは、何よりもコミュニケーション能力なのだと思う。
私自身も、患者として医師に伝えるべき、言葉の貧困を感じ続けてきた。
反省点は多々あるが
時間も人材も少なすぎる。


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