「ALS嘱託殺人」と隠蔽されたもうひとつの事件

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本記事を世界5月号と6月号誌上で読んだ。
「ALS嘱託殺人」は2019年11月に起きた事件で、当時大きな反響を呼んだ。
ALSという難病の酷さを知れば、それに同情する医師の犯行も善意と捉えられ兼ねない。
賛否両論あるだろう。

本記事は2024年3月に下された京都地裁判決を受けて書かれたものである。
医師という専門職による犯行に衝撃を受けたが、本記事に接し、被害者の苦悩と医療従事者の危うい立場、責任について再度考えさせられた。
と同時に永遠の課題「命の重さ」についてどのような答えが見つかるのか、熟考を強いられたる。

ALS(筋委縮性側索硬化症)は、神経系が障害を受け、筋肉が徐々に衰え、やがて死に至る、という難病だ。
自分が壊れてゆくのを日々意識しながら、生きてゆくというのはどんなに辛いことだろうか。

ついに自死を決意した人が、医師に連絡をとり安楽死を依頼する。
ここで、一個の死は、その一個人にのみ属するのか
という疑念が頭をもたげた。
一方、SNSなどでは、自死を決定するのは本人の自由であるという意見もみられた。
その状況に共感を寄せる医師が、専門知識と地位を利用して、患者を死に至らせた。
被告は「ALS嘱託殺人」の10年前に、知人の父親を殺害していたことが発覚した。
同様に、医師でなければ実行不可能な犯行だった。

判決文では被告の不幸な生い立ちにもふれられているが、不幸は多少の差はあれ、だれにでもあることだ。
この事件では、医療体制のあり方と、命への畏敬の念が問われるなければならない。
医療という、患者と医師の、そのあまりにも非対称な関係性のなかに問題の根があることは明らかだ。
それにしても社会通念上、命の重みについてだれもが共通の倫理観と感情を有していれば、犯行を抑止できるはずだ。

日夜ガザやパレスチナの非人道的な映像が流れるなか、あえて感覚を鈍麻させ、命の軽視が進んでゆくのではないか。
どのような考え方をしようとも「自死」は許されるものではない。

あなたの命はあなた一人だけのものではない。
私の命もあなたの命も同列に置かれているのだ。
あなたの「自死」が正当化されれば、私の命も、すべての命が脅かされることになるだろう。

正論、きれいごとは、時に当事者にとっては酷い。
それを克服する道を「自死」以外に探る道はまだ閉ざされていない、と思う。




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