レベッカとは誰か?
女は決して自分の自然な姿を見せない。なぜならば女は、自然から生みつけられたままでも、きっと人から好かれるものだ、というふうに考えることのできる男ほどのうぬぼれがないからである。
ゲーテの言葉である。
うぬぼれがない、というより、今の言い方をすれば、自己肯定感の低さということになろうか。
しかし、この男女の違いを述べたゲーテの言葉が正しいか、というと必ずしもそうではないだろう。
多分、男女とも、厳しく自己判定をするものは、自己嫌悪も激しく、時にそれは自己愛の裏返しだとも言われる。
レベッカは、ミステリベスト100などで必ず挙げられる、ダフネ・デュ・モーリアの有名な作品である。
「鳥」と同様、ヒチコックにより映画化されたこともあるので、たとえ未読であっても、読んだような気になる小説のたぐいだ。
小説のヒロインは、レベッカに比べれば平凡すぎるほど素朴な若い女性である。
対するにレベッカは、容貌・知性ともに優れ、生前接したことのある人で、称賛することのないものはいないほど、すべてに秀でた女性だった。
レベッカの夫だった男性と結婚することになるヒロインは、レベッカの影に怯え、わが身の至らなさを強烈に意識させられる。
果たしてレベッカは皆が愛し、感嘆するような美質を備えた「聖女」だったのか。
その謎をめぐって、サスペンスはいやがおうにも盛り上がる。
その上、レベッカはすでに死んでいるのだ。
ミステリは様々な進化を遂げ、そのジャンルのはじまりはいつのことだったのだろう、とふと考えさせる。
例えば歴史ミステリといえば「時の娘」がその嚆矢だと言われる。
しかし、そもそも現在提示されている歴史そのものがミステリではないか。
人間の心理こそ謎に満ち、今さらミステリの体裁をとらなくても、謎解きは日常のあちこちに遍在しているのではなかろうか。
あるいはだからこそミステリという虚構の創作を動機づけることになったと言えるのかもしれない。
リアルな現実はミステリの形式に仮託されて、その真実が開陳される。
息もつがせず「レベッカ」を読ませるのは、そのサスペンスの暗い味わいばかりではない。
風土の描写、ヒロインの心を揺り動かす疑念の叙述
それらが水も漏らさぬ緊密さで織り上げられているからだ。
土地の名前と結びついた女性の物語は、「嵐が丘」や「風と共に去りぬ」がある。
何故か土地の名に結びつけられて語られるのは女性のようだ。
昨夜、わたしはまたマンダレイへ行った夢を見た。
この有名な冒頭からはじまって
恐怖と疑念を乗り越えて、ついに至るマンダレイの平和。
だれも、マンダレイの平和を乱すものはいないだろう。はるか下の礫だらけの渚に波が砕けては寄せている間も、安全に森に守られ、魔法に封じこめられたもののように、いつもこのままの姿でいるだろう。 (大久保康雄訳)
※ レベッカ 上・下 ダフネ・デュ・モーリア 著
大久保康雄 訳 新潮文庫(’71.10)
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