読書メモ 近況報告を兼ねて

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フランス大革命前夜のパリ
夜のパリを彷徨しつつ、遭遇する事件、街角で交わされる言葉、…etc.不穏な空気をルポルタージュしている。
必ずしもドキュメンタリーばかりとは言えないようだが、歴史の描写には多様な方法があることを改めて感じさせる。
18世紀とは、ヨーロッパを成立させる条件がほぼ出そろった時代だと、確か吉田健一(「ヨーロッパの世紀末」)が書いている。
19世紀末になるとその精華が爛漫と咲き誇った。
シュテファン・ツヴァイクは、機械文明が生活を豊かにし、都市が目覚ましく美しくなってゆく世紀を活写している(「昨日の世界」)
20世紀は一転して、営々と築き上げた文化文明を破壊し、夥しい人命を殲滅する世界大戦が二度まで起きた。

今日のウクライナやガザの惨状をニュースで目の当たりにする時、塹壕戦に第一次世界大戦が重なって見えてくる。
歴史に学び、惨禍を繰り返すまい、とは誰でも思うところだ。
しかし、同じ轍を踏んでしまうのは何故か。
それも繰り返し…
悲劇を回避する道はなかったのか。

本書のように同時代に書かれた書物によって、当時の時代相に一歩でも迫ることできれば、或いは大惨事を避ける方途を探れるのではないだろうか。

戦争を始めるのは、戦争を知らない世代であると言われる。
戦争体験者からは、あの時代の空気は経験者でないと決して分からない、とそれきり理解不能という烙印を押されてしまう。
一言もないのだが、それでは歴史から学ぶことはできない。
理論や理屈は冷静に判断することができても、人間の感情の沸騰点を理性的にコントロールすることは難しい。
理性によって危険な感情を抑制する条件は何か

革命や戦争によって夥しい血が流されてきた。
アナトール・フランスの著作タイトルにあるように(「神々は渇く」)、まさに神々は血を求めて飽くことがなかったのだ。

サルトルは、核兵器を「歴史にノーを突きつける兵器」と言ったそうだが(世界3月号「ロシアがウクライナで戦う理由はなにか」)、そもそも科学技術が歴史を否定する危険性を孕むのは避けられない。
「神々が渇く」というのは、ほかならぬ人間の欲望に果てがない、というのと同義だ。
ならば、欲望を抑制する知性を鍛え上げてゆく以外に道はないだろう。
そのための民主主義だ。
共感と分かち合い
難しい「技術」だ。


※ パリの夜 革命下の民衆 レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ 著  
                           岩波文庫(’88.4)



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昨日の世界  シュテファン・ツヴァバイク  著  みすず書房(’99.3)

ヨーロッパ文明の終焉を告げる書
マリー・アントワネット、メリー・スチュアート、ジョセフ・フーシェなどの評伝で知られる作家
現在でも読み継がれている書物
少々感傷的すぎると思われるほど面白く、読みやすい


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