「日日是好日」を観て

日曜の午後、「日日是好日」を観る。
茶道をはじめた若い女性が、お点前を習いながら、少しずつその世界を深め広げてゆく。
映像は、二十四節気の移ろいを伝え、水の音を背景音にして自然の大いなる循環について語りかけてくるようだ。
柄杓から滴り落ちる水の音、雨の音、・・・etc.
小さな世界にも、森羅万象を包み込む宇宙にも水は同じように流れている。

型から入るお茶の世界。
なぜ、どうして、と問う前に、合理的な所作がそこに在る。
誰が体系づけたと名指さずとも、肉体がしぜんな動きを模倣する。

役者の手指が袱紗をたたむしぐさがクローズアップされる。
何度も繰り返され、なじんだ所作は、生まれ落ちる前から絹布と人の間を流れる川のようだ。

宇宙の摂理のごとく、その一部となって。
何のために、といぶかしむ心も沈黙し
いつしか自分が消えてゆく・・・
何ものかにすべてを委ねる平安。
森羅万象へと回収されてゆくおびただしい個。

稽古、修養というと、型を習得した上での自由の境地に遊ぶことを憧憬する。
型を自家薬籠中のものとして身に着けた時、あるいは本当に自由にふるまえるのかもしれない。

お茶の宗匠である樹木希林の、着物の着方、悠揚迫らぬ言葉やしぐさにほっとさせられた。
ひと口に「日日是好日」と言っても、その世界に至る道は険しい。
ガザで、ウクライナで、また災害地で、「日日是好日」は通用しないだろう。
心構えもかたちも思いやりも、圧倒的な暴力が支配する世界では、全くの抽象と化してしまう。
せめて「日日是好日」が当たり前に通用する世界を、と決意する。




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