清冽 詩人茨木のり子の肖像

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本書は私にとって、いろいろな点で興味深いものだった。

積読してあった茨木のり子著「ハングルへの旅」を探していたのだが、何故かなかなか見つけることができなかった。
そんな折、友人が貸してくれたのが本書だった。

茨木のり子の名は広く知られているので下手な説明は省く。
2006年にくも膜下出血で急死した詩人の家は今も西東京市に無人のまま残っている。
市民の一部には本市を「詩の町」としてグレード・アップすべく?その建物を保存しようとする動きが活発化しているようだ。

さて本書であるが
逝去して間もない詩人の姿を、ほぼ同時代の証人として身近に感じながら、その評伝を読んだ。
生前の詩人と懇意にしていた人々、係累、仕事上の関係者などから丹念に取材して、人物像と作品を浮かび上がらせた。

死者が生者の記憶のなかに生き続けることを改めて思い知らせてくれる一書にもなった。
人は死んでからも、親しかった人々の思い出のなかに生き続けるものだ。
それが詩人であればなおのこと、作品の中に命脈を保つことになる。

茨木のり子の詩は、平明さを身上とする。
しかし、心底深い信頼感を与えて、分かりやすく、胸に届く言葉は案外少ない。
批評しようと思えば、その平明さを衝くことも可能だ。
手垢にまみれ、怠惰なだけの通俗的な平明さがほとんどだからだ。
吉本隆明は、「人格で詩を書いている」と評した。
生き方そのものが迷うことなく言葉となり結実する詩人はまれだろう。

一見平凡にみえる日常の営為に鍛え上げられた言葉がある。
詩の最先端をゆくような、高踏的で才気走った言葉とは無縁なのであるが
だからこそ、ふと、ヒトにとってはコトバの始原とは、
と、ひっそりと尋ねるような気分にさせられることがある。
それは、読者それぞれの日常のなかに「詩」を見出すきっかけでもある。
コトバはその生誕の時から、詩のコトバだったのかもしれない…
と、訝しむ。

翻訳語ではない、ヒトと同時に生まれ、はるか昔の先祖たちが使っていたコトバ…
当然、平明な言葉の背後にも詩作の工夫があり、生みの苦しみがある。
よけいな修飾を取り去ったあとに、人格そのものが浮かび上がるとしたら、コトバとは一体何ものだろう…
その深淵に慄然とする読者がいる。



※ 清冽 詩人茨木のり子の肖像  後藤正治 著  中公文庫(’14.11)

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