「武器輸出と日本企業」を読んで

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ロシアによるウクライナ侵攻後、各国は軍事力強化の方針を打ち出している。
戦争による惨状を目の当たりにしても、軍備縮小について話し合うべきだ、とする意見は今日ではどこにも見当たらない。
そのような主張は、寝言か世迷い事と受け取られるばかりだ。
平和を維持するための抑止力は軍備増強によってのみもたらされるというのが、主流のリアリズムである。
プーチン、習近平あるいは北朝鮮など、話して分かる相手ではないというのだ。
話し合いが成立しないならば、暴力による圧倒的な優位を示すことが有効だというのが、大方の見方だろうか。

本書を通読すると、今日の戦争は、戦闘機・偵察機の無人化、ドローンの使用が有力な傾向となっている。
自国の兵を危険にさらさず、敵の命を奪う。
当然非戦闘員も巻き込まれ、市民の生活は破壊される。
営々たる知恵と労力の結集であるインフラも文明文化も消失する。

人類の歴史のなかで、自らの命をかけることなく、他者の命を奪うことは不可能であったし、少なかったと思われる。
もちろん人命は相互に尊重されねばならない。
その均衡が破られるのは、双方が同じ危険を負う時のみだ(あってはならないことだが)

無人兵器に底知れぬグロテスクさを感じるのは、機械の前に命が限りなく卑小化し、数値に還元されてしまう恐怖のせいだ。
兵器の見本市が開かれ、人殺しの道具が、一般の商品と同じように取引されることに、強烈な違和感を覚えたのもすでに昔のことで、今では連日のニュースで兵器の提供は「善意」であり正義と見なされる。

本書で一番の問題とされるのは、技術革新が人類の平和と福祉のためばかりでなく、軍事に転用されていくことの危険をどのように阻止できるかということだ。
民生の技術は、どのような技術であっても軍需に利用される可能性が潜在するだろう。
それをあくまでも押しとどめ、もっぱら人類の福祉にのみ役立てることは、技術者の願いだ。

一人一人の技術者に備わる人格というものが集団になると失われ、無責任になりがちだという、iPS細胞の山中伸弥教授の指摘を思い出した。
時に危険と背中合わせの技術を手にした研究者ならではの意見として深く傾聴した。

軍用に流出しかねない科学技術を人類の福祉にのみ役立てようとするとき、高いハードルとなるのが科学研究費の乏しさであることも分かる。
軍や軍備を進める政府がパトロンとなる誘惑を、技術者はどのように回避すべきか。
第二次大戦の未曽有の悲劇から、日本は科学技術を平和のためにのみ推進すべきと決意した。
そのタガが次第に緩み始めているのではないか。

本書は広く関係各方面に取材を試み、兵器輸出の現場の声を生々しく伝える。
ウクライナ侵攻以前の状況から今を読み解き、人類の生存をかけた試練にどう立ち向かうべきか、考えさせる。




※ 武器輸出と日本企業  望月衣塑子 著  角川新書(’16.7)

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