忘れえぬ人々

なかなか自由に外出できない身になってみると、ちょっとした誘いにも躊躇する自分が情けない。
何と友達がいのないことだろう。
不甲斐なく感じながら、会いたい人の顔を思い出すことがある。
そういえば「思い出す人々」という本があった。
内田魯庵の著作だが、国木田独歩の「忘れえぬ人々」と混同していて、念頭にあったのは後者の方だった。
忘れえぬ人々とは、深い交流があったわけでもないのに、ことに触れて思い出す、ほんの行きずりの人のことだ。
日常を離れて研ぎ澄まされた旅人の感受性は、風景に溶け込んだ彼等の姿を長く記憶に留めることになる。
早めの夕食をとって、6時半ともなれば、ダイニングは潮が引くように誰も居なくなる。
手もとにない文庫本の代わりに、青空文庫から「忘れえぬ人々」を再読する。
(スクロールしながら読むのは好きじゃない。紙の本より、読む速度が遅くなるそうだ)
旅人が泊まるのは、溝ノ口の宿である。
宿の主人に「東京から」と応える彼は、川崎を出立して八王子へ行こうとしている。
私はこの辺りの地理にまだ疎く、国木田独歩でいえば、小金井の桜堤の方が近しい。
こちらに移転した時は、二子玉川の素封家の娘であった岡本かの子の著作をよく読んだ。
海辺で何か採集している男の姿を遠景に見て、旅人は何に打たれたのだろうか。
ある種の感傷と想像力がその風景を特別のものにする。
学生時代に友人と北海道を周遊した折、とある海辺で、自分も同じように遠くから、黙々と労働する人の姿を、砂浜に座して延々と眺めていたことがあった。
重い昆布を肩に担ぎ、浜に延べ広げる作業を、行ったり来たり繰り返していた人は女性だったのではないか。
重労働を厭いもせず、ただひたすら反復する行為に私はひどく心打たれていたのだと思う。
それを見ているのは私だけで、他のギャラリーはいなかった。
過酷な自然とそれに対峙する人々の生活を描いたアラン島のドキュメンタリー映画を思い出した。
なかにはそうして言葉さえ交わさずすれ違っただけの他者への共感は
淡い交流だからこそ
深く沈潜して、決定的な残像となった、そのマジックについて独歩は書き記した。
※ 武蔵野 国木田独歩 著 新潮文庫(’49.5)
独歩の第一短篇集 「忘れえぬ人々」ふくむ18編
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