「暴力批判論」を読む

一読。難解だ。
用語の概念を正確に把握していなくては読み進むことができない。
まして翻訳となれば、なおさらだ。
一説にベンヤミンは、ナチスの手を逃れ、その逃避行中にピレネー山中で服毒自殺を遂げたと伝えられるが
緻密に言葉を重ねてゆく忍耐強い哲学者の仕事をみてゆくと、やはり自殺説は間違いのような気がする。
本書は、表題作も含めて、短いエッセイ集として編まれている。
「翻訳者の課題」を読むと、翻訳作業を通して、ベンヤミンがいかに「至高の言語」「真の言語」「純粋言語」というものを憧憬していたかがわかる。
翻訳は原作の意味を伝えるものではなく、作品の生そのものを伝えるものだとすれば、様々の言語に翻訳された作品は、相互に補完し合い、「真の言語」へと積分される。
まるで言語の起源へと遡行するようなロマンである。
「純粋言語」とは明らかに「詩の言語」のことだ。
文中に引用されているマラルメの言葉がそれを証拠立てている。
諸言語はいくつも存在するという点で不完全であり、至上の言語はない。思考することは、小道具を用いず、ささやくこともせずに、沈黙のうちで不滅の言語を書くことだが、地上の諸言語の多様性は、さもなければ一挙に見いだされるはずの言葉、具体的に真理自体である言葉が、ひとの口をついて出ることを妨げている。
諸言語の言葉は、文化によって異なる多重性を持つために、完全に一致する翻訳可能な言葉などない。
ベンヤミンは「失われた時を求めて」を翻訳しているが
時とともにフランス語が変質するようにドイツ語も変質する。
変化する言葉が、互いに補完し合い、「純粋言語」に到達するという。
言語は翻訳されることによって、ついに歴史を遡って「純粋言語」が現出する。
「言語に秘められているものがどれほど啓示からまだ遠くにあるか、そしてその秘められたものがこの隔たりを知って、どれほどまで現前しうるかを、そのつど翻訳は検証する」
「暴力批判論」については、その書かれた時代を考えると、マルキシズムやシュールレアリスムの影響を受けていたベンヤミンが、すべての暴力を否定していたわけではないこと、もしくは否定しきれない潜在的な暴力というものが、権力の手に留保されることを認めざるを得ない。
暴力は国家の制度の背後に厳然と控えている。
革命のために肯定された暴力が、革命が成し遂げられた後には、制度維持のために否定される。
しかし一方、国家による暴力は残る。
同時代の戦争に国家による暴力をみる時、あさましいばかりの不条理に慄然とする我々も
今なお死刑制度を温存させている。
※ 暴力批判論 ベンヤミンの仕事 1 ヴァルター・ベンヤミン 著
野村修 編訳 岩波文庫(’94.3)
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