フリッカー、あるいは映画の魔

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本書は、ミステリーというより近未来歴史小説とでも呼ぶべきではないだろうか。
映画の薀蓄が豊富で、映画好きは瞬く間に読み終えてしまいそうだ。
特に映画の技術面に関する記述が多く、その方面に関心のある読者にとっては、マニアックな読書体験になるだろう。

読みはじめから予感させるのは、「人類の最期」という不安なテーマである。
地球がもはや人類の生存には適さない、あるいは資源の枯渇、…という大問題に直面している今日。
現実に起きている、基本的な人権を易々と踏みにじって豪も恥じない権力者による野蛮な行為は、フィクションとして構想された陰謀史観的意図に奇妙なリアルさを与えている。
「邪悪」の一言で説明されるキリスト教世界における悪、それに対抗する善という二元論。さらにその二元論を否定する勢力との水面下での抗争。

映画というメディアの持つ、扇動的、陶酔的、破壊的、催眠的・・・な力は、時に私たちを確かに非日常の危険過ぎるほど魅惑的な地点まで連れてゆく。
そのことに注目した為政者が妙に映画好きだったりするのは、人心をコントロールするための技術として意識的に映画を使おうと考えているからかもしれない。
荒唐無稽とばかり退けられないのは、無責任で非人道的な為政者が現実に存在しているからだ。
茶の間に入り込んだテレビがそうであるように、視聴者は知らないうちに洗脳されてしまう。
日本の政治家もメディアの支配には積極的だ。

ごく単純なサブリミナルメソッドの有効性については、未だ明らかにはなっていないようだが、疑わしきは禁止するという原則に則り、NHKではサブリミナル的表現方法を禁止する旨を明文化している。
ネットの普及につれ、情報リテラシーの重要性が問われるようになって久しい。
視覚的な影響力はテキストのそれに比べると、影響が大きく、それも短時間で達成される。
感化は、無意識的に無批判に起こりがちだ。

ストーリーの結末は尻すぼみで期待外れだ。
ただ映画をめぐる饒舌体には脱帽させられる。

自民党と統一教会の無節操な癒着をみる時、政治と宗教による洗脳が、互いを必要とする双生児のように思われる。
現代でも。


※ フリッカー、あるいは映画の魔  セオドア・ローザック著  
                     文春文庫(99.12)

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