文学は、たとえばこう読む —「解説」する文学Ⅱ

文学は.jpg


関川夏央による本の紹介には定評がある。

文庫本には必ず巻末に解説が載る。
その解説の劣化が激しいというのが、著者の感想である。
その原因は、1970年代半ば以降の文庫本の大量生産にあるという。
もちろん、書評と解説は少し違うが、いずれも「やや辛気臭い」仕事、「報われなさ」は変わらないものだろう。

井上ひさしは、書評という仕事について、時間的にも知的労力的にも採算が取れない、という意味のことを述べていた。
関川夏央は解説について、解説しない「解説」が増えたという。
手抜きである。

本書は、1985年以来の解説文集の第二弾である。
著者は、精魂かけて書かれた書物に正面切って向き合い、「解説」する。
演奏家が作曲家へのリスペクトゆえに、解釈も含めて正確を極めて演奏するように。

時に本の販売促進につながらない書評がある。
それですべてわかったようなつもりにさせる書評である。
関川夏央の「解説」は、力が入っている分、それなら読んでみようという気にさせる。
書物の深みをかいま見せるからだ。

特に明治から昭和初期にかけての「文豪」の作品の再読を促す。
国木田独歩など今時読む人がいるだろうか、と考えるのは文学を解さないからだ。
関川夏央の解説にかかると、明治の文豪が、社会に対峙して生き生きと躍動する時代相が見えてくる。
それは21世紀に生きる読者にとっても力強いメッセージになる。

四つに分かれた章立てになっているが、現代作家のものより、一番最後に読んだ明治期から大正期の文豪の話が面白かった。

降る雪や明治は遠くなりにけり
明治とはついこの間のことなのだ、と思う。




※ 文学は、たとえばこう読む —「解説」する文学Ⅱ
                 関川夏央 著  岩波書店(’14.5)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック