「暴君—シェイクスピアの政治学」を読む

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権力が庶民にとってほど遠いものであるからこそ、「権力」の魅力は謎であり、永遠の政治的課題であるように思う。
文学や演劇を通して、読者や観客が権力の極北に位置する「暴君」に魅せられるのはなぜだろうか。
シェイクスピアはそれを洞察していたがゆえに、リチャード三世、ジュリアス・シーザー、マクベス、リア王、その他の作品を書いた。

シェイクスピア研究者が「暴君」と、その台頭を許してしまう社会の関係について分析する。
それは当然のように今日の政治状況を反映している。
本書を読んで、前大統領トランプを思い浮かべない人はいないだろう。
実際本書は、アメリカで行われる大統領選挙について憂慮する著者によって書かれている。

「愛」について書かれた書物は夥しい。
全てのが著作がそれについて書かれたといっても過言ではない。
愛の情念も、愛のイデオロギーも、通俗的な面はあるけれど縁遠いものではない。
ところが「権力」となるとそうはいかない。
より複雑に入り組んでいるようにみえる。
著者は、暴君の特徴として、際限のない自意識、法を破り、人に痛みを与えることに喜びを感じ、強烈な支配欲を持ち、病的にナルシストで、この上なく傲慢だ、と記している。
あまりにも貧しい性格とはいえ、この情念は暴走するのだ。
そして、その暴走を許してしまう追従者がいて、つい傍観してしまう大衆がおり、あろうことか騙され魅了される者すら出現する。

リチャード三世は身体的に奇形であるが、彼を演じていた俳優に魅了され、逢引きの約束まで交わす婦人のエピソードが紹介されている。
魅惑したのは役者の身体なのか、あるいは「暴君」の邪悪な心の方なのか、…
その魅力に抗しがたいのは何ゆえか。

「私たちの中の何かが、このおぞましい権力への上昇の一瞬一瞬を楽しむのだ」

フィクションとしての演劇が、政治的に穏当に振舞う人間の心の深奥をあぶり出すようだ。

先に述べたように本書は、今日の政治状況の危うさを、シェイクスピア劇を通じて喚起している。
権力に疎遠であるからこそ、シェイクスピア劇は未知の世界への興味を駆り立てる。

著者は最後に次のように述べている。

シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。

「人民がいなくて何が街だ?」

※ 暴君 シェイクスピアの政治学  スティーブン・グリーンブラッド 著
                            岩波新書(’20.9)

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