晩秋に想う 近況報告

秋晴れの空を背景に、お隣のヤマモモの梢がガサゴソと動いているのが見渡せた。
ドーム状にきれいに整形された木である。
隣家出入りのS造園の主人が脚立に乗って剪定作業をしているのだ。
道路際のヤマモミジは大きく枝を広げているが、今年はまだ緑色のままである。
(すでに晩秋なのに、この暖かさはどうしたことだろう…)
植えたのは数十年前だが、人間の背丈の半分ほどもなかったという。
その下を通りかかる人は、夏の緑陰に息をつき、秋になれば目の覚めるような紅葉に癒される。
幹回り1m近くあろうかという大木に成長した。
山にあった雑木は、日当たりと風通しさえよければ、ぐんぐん成長する。
知らないうちに家屋を圧倒しかねない。
(我が家でも、廃業するというK造園に代わって、Sさんにお願いすることになった)
モミジは落葉を待って、剪定するという。
元気のよい若木も、壮年期の樹木も、老木も同じように、静かに季節の巡りを受け入れる。
一方、虫害で根元から伐らねばならないエゴノキがある。
ツバキもチャドクガにやられて、隣家に迷惑が及ぶといけないので、伐ることにする。
しばらく手入れを怠った庭は、落ち葉が堆積し、雑草も園芸品種も等し並みに扱われ、まるで山中にいるかのようである(^^;)
初秋にはシュウメイギクが咲き乱れていた庭も、トロロアオイが幻想的な黄色い花を点綴していた時代もあり、チューリップの球根を一面に植えたこともあった。
ささやかな庭も生き物である。
人も年を取らないはずがないのだ。
長年通った美容室に行く。
主人が、いつになく改まった様子で、今年いっぱいでやめます、と言う。
思いがけないことで、びっくりした。
若く見えても、60歳になるという。
自由業の良さは定年のないこと。まだまだやれるのに…
理容師はいいけど、美容師はあまり年取ってはどうも、と口ごもる。
前から引き際を考えていたそうだが、コロナが背中を押した、と打ち明けた。
コロナのせいばかりとは言えない。
出会いのうれしさよりも、縁が切れる寂しさの方が身に染みる年になったとつくづく思う。
※ 冒頭の写真は、今朝(11/18)の撮影
大きな渋柿はいつ干し柿として完成するのか…?

死という最後の未来 石原慎太郎・曽野綾子 著 幻冬舎(’20.6)
老い方について、「当事者」の対談集。
信仰のあるなしというより、男と女の違いを感じる。
石原慎太郎は、もがいて抵抗して、死を攻略したい(観念的にでも死を理解したい。安心したい?)という挑戦型。
曽野綾子は従容として大いなる原理に身を任せようという達観型。
さてどちらに軍配は上がるのか…
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