本格小説

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「本格小説」という題名の意味するところは、私的な身辺に材を得る「心境小説」に対して、社会的現実を客観的に描く、自立した小説というものだ。
それをそのままタイトルに掲げるあたり、近代小説に対する思い入れの深さを示している。
水村美苗には他に、「私小説」「新聞小説」などの言葉の入った題名の著作がある。
それらの作品を読むことによって読者は、おのずと近代小説全般を回顧することになるだろう。
さらに未完に終わった夏目漱石の「明暗」の続編として「続明暗」を書いている。
近代小説への「愛」には並々ならぬものがあるのだ。
「日本語が亡びるとき」では、日本近代文学を確立した苦闘の歴史を振り返り、「日本近代文学を読め」と、強烈にアジテートした。

さて本作「本格小説」は、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」を、舞台を日本に置き換えての翻案ということだ。
読了後、ヨークシャーの荒々しい風土と切り離すことのできない情念の物語は、日本の上流階級の人間模様とは、どこか違うと思わせた。
「嵐が丘」よりもむしろ「華麗なるギャツビー」を想起した。
「復讐」の鬼となるヒースクリフより、華麗に成り上がる東太郎は、ギャツビーに似ている。

人物配置にはほぼ、「嵐が丘」の登場人物の役割が振り当てられている。
よう子と太郎の宿命的な恋は、そのままキャサリンとヒースクリフのそれであろう。
しかし、恋愛自体は、どれほどその強い情念の世界が描かれようと、ひとつの消失点に過ぎないと思われる。

そこで、何よりも小説の醍醐味は、物語の背景となる昭和という時代、軽井沢の風物、登場人物の心理の綾など、細部の緻密な描写であった。
細部のリアリティに導かれて、およそ1100ページの文庫本をあっという間に読み終えてしまう。
主な語り手、女中に過ぎない冨美子が敢えて語ろうとしなかったことが最後に明かされる。
その事実は何を意味するのか。
解釈によっては本書、日本の「嵐が丘」は全く違った物語になるような気さえするのだった。
長大な私小説的前書きといい、著者が仕掛けた問いが、余韻となって尾を引いた。


※ 本格小説  水村美苗 著  新潮文庫(’05.11)

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