ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実
オバマ大統領が現職大統領として初めて広島を訪れ、謝罪はなかったが、被爆者を含む戦争犠牲者に対して哀悼の意を表した。
テレビで大統領のスピーチに耳を傾けながら、抽象的で原爆を投下した当事国の大統領としては「他人ごと」過ぎるような気もしたが、核廃絶に向けての大きな第一歩だったことは、アメリカの事情を考えれば間違いないと思う。
広く、戦争一般の犠牲者への想像力を強調するスピーチは格調も高く、心を打つものだった。
原爆投下という残虐な殺戮行為は、当時ソ連のスターリンを驚愕させている。
「ブラッドランド」にも書かれていることだが、科学と軍事力、そしてスターリン自身に勝るとも劣らない「冷酷さ」をアメリカもまたもっているということに対してスターリンは怯えたのだ。
「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」を読んで、二つの世界大戦を経験しながら、今もなお紛争やテロの絶えない現実をどのように考えたらよいのだろうか、と思う。
本書の「ブラッドランド」とは、ドイツとソ連に挟まれた地域のことで「流血の大地」という意味だ。
ウクライナは第二次大戦以前から、ソビエトの政策により、数百万人が餓死させられている。
食糧問題を解決しようとしていたナチスにとってもウクライナは魅力的な「穀倉地帯」だった。
ナチスの侵攻によって殺害された人数も含めるとブラッドランドで流された血は 1400万人に達するという。
数字に還元されてしまった人々の、その一人一人に思いを馳せることの大切さについてオバマ大統領も言及していた。
数字にリアリティをもたせる方法があるだろうか。
容積の巨大さをあらわすためによく東京ドーム何倍分という言い方がされるが、人についてはどうだろう。
東京都の人口を上回る数字はすでに抽象に過ぎないだろう。
アメリカは、本土決戦によって失われる命が原爆によって奪われる命より多くなるということで原爆投下を正当化しているが、それで本当にアメリカの良心は納得できるのだろうか。
数値の意味するところはいつも私たちに難題をつきつける。
果たして数字の大小によって事態の善悪を論じることができるのだろうか…
アメリカに先んじて原爆を開発できなかったナチスとソビエトは、意図的な餓死、ガス室、銃殺という方法をとった。
が、そもそも「効率的な殺害」を目指している点で、手段を問わず、革命と戦争が犯した罪はあまりにも「非人間的」である。
非人間的であるとは、本性上人間が忌避することをあえて行うことである。
原爆投下は一瞬にして夥しい命を奪ったが、粛々と、また延々と実行された銃殺がいかにむごたらしいか。
空からの原爆投下は、その結果引き起こされる惨状を見ないですむ。
それが、キューバ危機の時のように懲りることなくその後も原爆の使用を考えさせる原因になっているのではないだろうか。
実は日常でも似たようなことが起きて、しばしば問題になる。
机上のプランと、現場の実態の祖語。
双方のコミュニケーションがうまくいかず制度が人間的に運用されない場合などである。
組織と制度に人間性を盛り込む要が想像力だろう。
戦術・戦略を練る立場にある人間は前線へも行くべきなのだ。
チャーチルは空襲を受けた地にただちに慰問に行ったが、ヒトラーは決してドイツ国民が蒙った悲惨な現実を直視しようとしなかった。
本書は、ナチスの強制収容所以外で起きた大量殺戮について網羅的に検証している。
ナチスの犯罪が俎上に上ることは多いが、戦勝国であったソ連の犯罪について、なぜ起きたのか、どのように実行されたのか、が戦後も長い間隠ぺいされ、あまり語られてこなかった。
筆者は十一の言語を解し、一次資料に当たって分析した結果が「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」である。
ワルシャワ蜂起の際に殺された人数だけでも、広島、長崎の原爆による死亡者数を超えるという。
※ ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実(上)(下)
ティモシー・スナイダー 筑摩書房(’15.10)
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