「秋山紀行」にみる旅の作法 そして秋田マタギのこと

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「ようちんなった」
旅人が一夜の宿を求めた時に、秋山人が開口一番に発する挨拶の言葉だ。
秋山郷では、「き」と「ち」を混同する。
「よく、いらっしゃいました」という意味だ。
鈴木牧之は、一宿の恩義に対して、数枚の短冊を残して別れを告げている。
主人は裸足で家の外まで見送りに出る。

何の紹介状もなく、旅人が見知らぬ民家に足をとどめ、それを至極当たり前に受け入れる村の人々がいる。
閉鎖的な村社会であればこそ、逆に「旅のお人」を大切にしたものだろう。
秋山紀行で胸を打つのは、孤絶した村に住む人々の、自然とともに生きる暮らしが育んだ素朴な心情だ。
湯本の村に至り、牧之たっての願いで、秋田マタギから話を聞くくだりは圧巻である。
秋田マタギはこの地に来て狩猟の技術を伝え、中津川で捕獲したイワナやマスを、草津まで運んだという。
旧草津街道を経て、その先は道なき道を踏破する。
途中目にする絶景奇景はマタギだけが知るものだ。

牧之は、約束を順守して夜分に訪れたマタギの風貌にいたく感心させられている。
背に熊の皮を着て、同じ毛の胴乱を前に置き、鉄張の大煙管にて煙を吹き出す風情に
「天晴なる骨柄に見うけぬ」と。
衣食住において自立した人間が持っている根源的な自信からくるものだろう。
米と塩のみを携えて、獣を捕獲し、皮を剥ぎ、肉を食らい、魚は塩して乾かし商品として消費地に運ぶ。
川原で石を枕にして寝た一夜が明けてみると、傍らに狼が通り過ぎた夥しい足跡が残されていたことがあったという。
深山幽谷に分け入る漁師の勇猛と殺気を恐れて、獣も無用なリスクを避けたものとみえる。
危害を加えずに通り過ぎている。

私たちも見倉橋を渡るまで、九十九折りの急坂を延々と下ったが、当時は大木と茅のみでつくられた簡便極まりない橋が架かっているだけだ。
「秋寒しこゝも苧(を)がらに似たる橋」 などと詠む牧之。
恐る恐る進む牧之に対して、道案内の子どもは、砕け散る渓流をものともせず、猿猴のように飛び渡り、末端に鍵のある細竹でイワナを「かき上げる」。
その賢さを賞嘆する牧之は、対岸の村で、凶作の年に絶滅した大秋山の話を聞いている。
今でこそ限界集落がクローズアップされるが、昔から中絶した村は数知れず。
宿の前で土産物店を取り仕切っている女性が、ブナの小さな実の皮を剥いて見せてくれた。
形は蕎麦の実に似ていてカロリーが高い。
子どもの頃よく拾って食べたものだとか。
足の立つものは皆栃の実を拾い
長い間、木の実を常食としていた人々が、やがて粟・稗を食べるようになり、そのうち競って田圃を拓くようになった。
それほど昔の話ではない…

冒頭の写真は見倉集落にて。

五戸の里に
女もあるか
子もあるか
日あたる軒に
赤きもの干す





                                           つづく

この記事へのコメント

2011年10月26日 14:39
今日は。
「ようちんなった」。。いい響きですこと。
>至極当たり前に受け入れる村の人々がいる・・・昨日も「つどい」で、失われていった人とのつながりの話のなかにそんな話が出ていました。
遍路道などはまだそのようなつながりを、感じますが、
実際に遍路したことが無いので分かりません。

3年前の秋に、秋田マタギ「阿仁マタギ」を訪ねたのです。
険しい山間の紅葉のみが印象に残っています。
ブナの小さな実を拾ってお土産にしました。
>傍らに狼が通り過ぎた夥しい足跡・・さにあらんなんて。
2011年10月26日 20:38
やろいさん、ありがとうございます。
母の故郷では「ようきなった」と言うそうです。
今回の震災で「絆」の大切さに気づいたわけですが、絆の他の側面は「しがらみ」でもあるわけで…
それを嫌ったからこそ今の現実があることを考えます。
マタギの生活に、遠い狩猟民のロマンをみてしまいますね(^_^;)

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